鎌倉 鉢の木【和食】精進料理/会席料理/カフェ

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鉢の木物語

はじめに

鉢の木創業者 千葉ウメ

 物心ついた頃から、我が家にはいつも誰かしら家族以外の人が居たように思います。森岡澄さんは木工を、間瀬菊江さんはろうけつ染めを、他にも子供会や近所の人たちが何かにつけて出入りしていました。今はない平屋の家を思い返せば、そんな温もりのある光景が蘇って来ます。個人の家にしては広かったこともありますが、人が喜ぶことをするのが好きな母を、みなさん慕ってくださったのではないかと今さらながら、ありがたく思います。

 『鉢の木』の40周年に当たる今年、母親であり『鉢の木』の創業者である千葉ウメは米寿を迎えます。二つの祝い事が重なった佳きこの機会に、あの平家が店となり今日の『鉢の木』に至るまでのこと、そして母の来し方なども添えて形にしておきたいという想いが強くなりました。

 ささやかな冊子ではございますが、出会いに感謝しながら綴られて来た『鉢の木』の物語を母の思い出話をもとに記してみました。お目通しいただければ幸いです。

平成十六年十一月吉日 有限会社 鉢の木 代表取締役  藤川譲治

第一章 鉢の木にウメの花咲く

鉢の木誕生

 北鎌倉の建長寺北条時頼が建立した由緒あるそのお寺の門前の
小さな仕舞屋で私は思案に暮れていました
 明日からどうやて食べて行こう一人息子の譲治はまだ小学生
姑もいます皆の生活が私一人の肩に掛かている・・・訳あ
そういう事情になりました
 すでに私は四十七歳これまでずと主婦として家庭の中の働き
に専念していた私にとこれから先一家の大黒柱としてがん
ていくことなど途方もないことのように思えましたしかし
考えていても始まりませんいえ考えている余裕などありません
私にできることをやるしかないそう思た時浮かんだのは
べ物屋さんでした
 そういえば私の家は以前は奈良漬寿司のお店だたようで
私たちが住むようになてからもまだお寿司屋さんをやている
と勘違いした人が入てきてこちらも驚いたことがありました
そんなことも思い出しながら地の利は悪くないという確信を持
ちました
 そうはいても当時はこの辺りはほとんど店らしい店もない静
かすぎるほどの場所でしたからこんなところで商売をやるなんて
と反対する人もいましたが建長寺さんの門前でもあり参拝客を
あてにする気持ちもありました
 そして峠の茶屋ではないけれど緑深いこの道を歩いてきて一休
みするような店としておにぎりに野菜の精進揚げを添えて出した
らどうかしら・・・それなら私にもできそうだと思たのです
 やてみてもしだめだたらその時は下宿屋でもやれば何
とかなると腹をくくりました決心したら後ろは振り返らないの
が私の性分早速店の開店準備にかかりました
 開店にあたては大勢の方にお世話になりましたいちばん相
談にのていただいたのが大石正雄さん恭子さんご夫妻でした
恭子さんとはろうけつ染めの仲間でご自分で商売をした経験があ
るというので先に相談したところ会社経営をしている御主
人の正雄さんも親身になて何かとアドバイスを下さいました
の後物心両面において私が一番苦しかた時に支えてくださ
まさに鉢の木の恩人のような方々で息子の結婚の際には仲人
もお願いしたほどです

鉢の木店名の由来

 店の名前は友人の間瀬さんが建長寺の門前という立地だし
建物の雰囲気を見ても鉢の木がぴたりよと勧めてくれて
決まりました歴史や仏像のことなどを研究するのが趣味だた間
瀬さんは謡曲鉢木にまつわる故事をよく知ていて私の店
の名にと提案してくれたのでした
 ここに当店の名前の由来となた謡曲鉢木にまつわる故事
をご披露しまし
 鎌倉時代のことある雪の夜であ
 上野の国佐野の里に源左衛門常世という貧しい男が暮らしてい
たがそのあばら家に道に迷たという旅の僧が一夜の宿を求め
てきた常世は気の毒に思いすぐに家の中に招き入れた
 しかし凍えるような寒さであたが貧しさゆえ囲炉裏にくべ
る薪がない常世は櫃の中にわずかに残た粟を粥にして僧にす
すめた
 それでも体はどうにも温まらない
 そこで常世はどんなに貧しても手放さず家宝のごとく大事にし
てきた鉢植えの梅桜を切囲炉裏に火をおこしてくべた
そうして暖をとることが旅の僧への精一杯のもてなしであ
のだ
 貴重な鉢の木を炊いた囲炉裏で膝を寄せながら常世は我が身の
不遇を僧に語
 自分は一族の裏切りにあて今はこのような落ちぶれた身である
 しかしまたこうも語
 いかなる暮らしにあても未だ心は御家人の忠誠を持ている
鎌倉にひとたび大事が起きたなら一番にかけつけて命を捨てても
幕府のために戦うつもりである
 翌朝僧はこれほどの心のこもたもてなしを受けたことはな
と礼を言て立ち去
 実はこの僧は五代目執権北条時頼であ時頼は出家して執
権の座を北条長時に譲り自分は諸国の御家人や民衆の実情を知ろ
うと旅の僧の姿となてたた一人のお供を連れて諸国行脚の旅
をしていたのだ
 幕府に帰た時頼は上野の国の武士たちに鎌倉の一大事
馳せ参じよと命令を出したすると常世は雪の夜に語た通り
先に馳せ参じたそうしてあの時の旅の僧が時頼だたことを
知る時頼は常世の嘘偽りのない言動を誉めまた極貧の中にあ
ても見ず知らずの旅人のために最も大切にしていた鉢の木を燃や
してもてなした心を賞して恩賞を与えたという
 源左衛門常世が貧しさゆえに何もないながらも家宝の鉢の木で火
を焚き精一杯のおもてなしをしたように私も立派な板前さんのよ
うな料理は到底できないけれど主婦として培てきた家庭料理の
おいしさを提供しおもてなしの心を精一杯尽くしたいと思いまし
鉢の木という名前はまさにぴたりのよい名前だとすぐ
に気に入りましたそして後に新館が建た辺りは出家した時頼
住まいとした最明寺のあたところだとか不思議な因縁を
感じずにはいられませんでした
 鉢の木の看板を作てくれたのは森岡澄さんです森岡さ
んはアイヌ彫りの彫刻をしていた方で当時はわが家の入口の土間
を仕事場として貸していたのですが事情を知て自分から看板製
作を申し出てくれたのでしたアイヌ彫りらしい素朴さの中に情熱
の感じられるすばらしい鉢の木の看板ができ上がりました

創業当時のこと

 こうして周りの方々の助けを得て昭和三十九年二月二十六日
鉢の木は開店したのです森岡さん作の看板を玄関脇に掲げ
戸口には私のお手製のろうけつ染めの暖簾を掛けました
 三角にむすんだおにぎり三個ニンジンやゴボウインゲン
イタケのかき揚げナスの揚げたもの揚げ田楽などを盛た小
さなざる季節の野菜のおみそ汁私が自宅用に漬けていた糠漬け
それらを半月のお盆にのせてお客様に出しました最初は二百五
十円か三百円ほどだたと思います
 ところが特別に宣伝をしたわけでもなくましてや私が風邪を
ひいたことで延び延びになた挙げ句の開店ですからここでおに
ぎり屋が始またことなどほとんど知られずお客様がなかなか来
ません建物の通りに面したところが店奥は家族の住まいとして
いましたが姑はなかなか来ないお客を待ているのが辛いという
ので近くのアパトへ転居することになりました毎日やきもき
させて疲れさせてしまたのでし
 開店休業状態のような辛い日が続きましたそれでもぼつぼつと
通りすがりに看板を見て入てくれるお客様を相手に精一杯の仕事
をして根気よく店を開いているうちに日を追てお客様が増えて
きたのです
 手作りのおいしいおにぎりや精進揚げを出す店があると一度来
てくれたお客様の口コミで評判となたようでうれしいことでし
またうど東京オリンピクの年でしたがこの頃は高度
経済成長の時代でありようやく日本人の生活にゆとりが持てるよ
うになた頃でもありました働きづめだた生活からレジ
いう発想が定着しつつあり鎌倉も観光地としてにぎわい始めまし
雑誌などがてみたい街・鎌倉と特集を組む度に訪れる
人が増え当店もこうした観光客の姿が増えていきました
 そのうち私一人の手には負えなくなり近所の奥さんなどにお
手伝いに来てもらうようになりましたそれも臨時からやがて常
時へと勤務態勢をお願いするまでに店の忙しさは増すばかりとな
りました

初めての団体のお客様

 わが家の裏に鈴木さんという大工さん夫婦が住んでおりそこの
奥さんもうちで働いてくれた一人でしたまだ二十一二の若い方
でしたが仕事が丁寧でいて手早く感心したものですおにぎりも
私が三個握る間に鈴木さんは五六個握てしまうという具合
主人にも店の細々した修繕などをお願いすると気軽に引き受け
てくれました
 知り合いの姪御さんにも手伝てもらたことがありますが
る時四十人の団体のお客様が急に見えた時のことですまだ
半分素人の私は途方に暮れてお断りしようかと思いましたところ
その娘さんが大丈夫ですからお受けしましと言てく
全員にお盆を出して対処することができました懐石盆が足り
ない時は近所に借りに走たことも懐かしい思い出です
 困たことといえば帳簿つけもそのひとつでした私はどちらか
といえばお金の計算には疎かたので開業してからしばらくの間
大石夫妻が帳簿をつけたり経理面の面倒をみてくれたものです
 開店して二カ月くらいたた頃でしうかある学校のPTA役
員の方々が来店しお食事の予約をしたいとのこと話を聞くと
五十人ほどというので慌てましたありがたいお話ですがそれ
だけの人数をもてなすには十分な人手もなくとても無理です
お断りするとなんと私たちが朝から来て手伝いますから是非
受けて下さいと言うではありませんかそれでお受けすることに
たのですが役員さんたちは本当に朝早くから来て手伝てく
れましたお客様に手伝てもらうなどまさに始めたばかりの未
熟な店ならではのエピソドだと思います

仕事が仕事を教えてくれる

 お客様の声を参考にして工夫を重ねるうちに料理についても
おにぎりと精進揚げのメニから少しずつ種類が増えてきました
 こうしておおぜいの方に助けられながら何とか店は毎日営業を
続けていきましたこの店は従業員やお客様に育てられそういう
方々と一緒に歩んできたといても過言ではありません私一人で
始めた小さな店がだんだん北鎌倉のこの地で根付いていくようで
うれしくもありました
 そして綱渡りのように毎日をこなしていくうちにできない
と言てしまたらそれきりだただろうことができない
言わないで一所懸命取り組むことでできてしまう力どんなことも
諦めず経験を積むうちに可能性が広がていくことを実感するよう
になりました仕事に教えられたといいましうか今でも私の
口癖は一生懸命やていれば仕事が仕事を教えてくれるもの
長年変わらない私のそして鉢の木の仕事の精神といえるかも
しれません

石の上にも三年

 ちうどその頃鎌倉在住の作家・永井路子さんがたまたまお店
にいらしたことがあり鉢の木を気に入てくれたようで
井さんの紹介で東京のテレビ局が取材に来ました放映された内容
まず店の正面が大きく映し出され続けて当店の料理が画面
に出ると永井さんがそこにコメントを加えるというものでした
このかぼちおいしかたのよと永井さんが誉めてくださ
たかぼちの煮物も私にしたらごく普通に煮たものなのですが
その素朴さがかえてよかたのかもしれません
 このテレビ放映の後テレビを観てと言て足を運んでくだ
たお客様がずいぶんあり売り上げも増えたものでした
 しかしいい日ばかりではありませんどんな商売も波のあるも
私の店もぱたりと客足が途絶えたことが何回もありました
商売の閑散期は二八といわれる通り特に夏真盛りの暑い日は客
足が遠のきがちこんな時はとにかくあせてもだめと我慢
するしかありません大阪商人の言葉商いは飽きないとはうま
いことを言たものです暇だからと放り出してはだめ飽きたら
だめ暇な時は暇なりに工夫して過ごしまたお客様が来る時を待
つのです新しい料理を考案したりお土産用に店先に並べるお手
玉やろうけつ染めの制作に精を出しました
 こうして商売の雨の日も晴れの日も経験していくうちにこの
商売でやていけると自信が持てるようになたのは開店して三
年目の頃だたと思います昔から石の上にも三年と言います
本当にその通り多い時には一日に四百人ものお客様がいらし
たこともありましたその時の忙しさといたらこの小さな店に
入れ替わり立ち替わりお客様がひきりなしにお出でになり私も
店の者たちも一日中立ちぱなしで食事をする間もありませんでし
それでもお客様の応対をしている時は疲れを感じることもな
動きづくめですあのころの奮闘ぶりを思い起こすと我なが
若かたなよくやたなと今でも感心するほどです
 そうして一度来てくださたお客様が次のお客様を連れて来て
下さるようになり年々店は繁盛していきました

店の成長息子の成長

 ずと経理の面を見ていただいた大石さんの勧めもあ昭和
四十四年四月店を有限会社鉢の木として設立し私が社長に
就任しました五年目でここまでになたことに感慨もひとしお
と同時に社長という肩書きがずしり重くもありましたしかし
こうして法人化したことでこれでずとやていくという決
意を新たにもした身の引き締まるような思いをよく覚えています
 小学生だた息子も高校生になていました
 母親の私はずと働きづめで息子には寂しい思いをさせてばか
りだたことでし朝は六時頃から夜は七時八時まで店で働
くばかり学校の父母会などにもほとんど出られませんでした
 でも食べていくのに必死で始めた仕事ですし必死で働いた甲
斐があて店は会社組織にまでなりました経営者になるとお客
様の信頼を得ることはもちろん大事ですが加えて従業員への責任
もあり体がいくつあても足りないほどです頭の中は絶えず店
のことでいぱい昼間店で気にかかることがあると夜中にふ
と目が覚めてそのことを考えてしまいます何日もの間天ぷら
にするおもしろい材料はないかなと思ていたのがふと寝床に
てからタンポポはどうだろうと思いついて起き出してメモを
取ることもありますそんなふうに睡眠時間が縮まるのもし
三時間の眠りを取朝起きるとすぐにその日の献
立の下ごしらえにかかります
 それでも私の働く姿を見て育た息子は多感な時期も大きく
道をはずすことなく成長してくれました
 息子は大学卒業後自らの意志でこの店の後継者の道を選びまし
当時うちの板前として働いていた射庭武治さんの紹介で
都・岡崎の美濃吉さんでの修行を経て鉢の木に入りまし
 それからは経営の面でも力がつき時代の波にも乗昭和五
十四年には北鎌倉駅寄りに支店現・北鎌倉店平成二年には
さらにその隣に新館を開店するまでになりましたこうした一連の
出店計画から実行までは息子の功労ですいつのまにかたくましく
成長し経営者としての才覚を著しておりもはや鉢の木の経
営を支えているのは彼でした全容を考えても企業としての経営
力がさらに求められる時期にもなていましたそこで平成四年
息子が社長に就任私は会長職に退いたのです
 かつて住まいの一角で始めた店は今では北鎌倉に三店鋪とな
台山に建てた自宅で私は息子の家族と一緒に暮らしています
 それでも相変わらず私は毎日出勤しています店で働いている
時がいちばん楽しいのですいつまでも働ける健康に感謝仕事を
通じて恵まれたたくさんの出会いにも感謝するばかりです

第二章 働く喜び生きる喜び

 主婦だた私が始めた食べ物屋ですが幼い頃の故郷での体験や
若い頃に経験してきたことすべてが仕事に生かされるのだとよく
実感いたします鉢の木らしさをかもし出しているものは
んな事ごとにも根ざしているのでしそこで少しそんな思い
出話などもこの機会にお話したいと思います

ふるさと岩手の自然

 店を始めた頃のわが家の周囲といえばまだ建物が多くなく
草や花がふんだんに息づいていましたフキノトウセリコゴミ
ゼンマイタラの芽などの山菜を摘んでは天ぷらなどちとした
料理を作たものですスミレやタンポポをはじめ草花も色とりど
りに咲いていました
 私はもともと花屋さんで売ている花よりも野に咲く小さな花
に惹かれます店をやるようになてからはおいしい料理ととも
常に季節の花を絶やさないよう心がけてきました
 こうした自然を愛する心は山間の村に生まれ育たことも影響
しているかもしれません
 私のふるさとは岩手県九戸郡葛巻村青森県寄りの北部にあり
村を縦断するように馬淵川が流れる静かな山里でした生家は土木
業を営んでおり私はそこの五人兄妹の長女として大正五年六月
一日に生まれました役場への届けが六月ということですが昔の
ことですからウメという名前からすれば三月か四月に生まれたの
ではないかと思います
 汽車に乗るには沼宮内という東北本線の小さな駅が最寄り駅
こまで行くにはずいぶんかかたように記憶しています
 子供の遊び場は山や川私は山歩きが大好きでした一人でも平
気で山に入て遊びました
 岩手は民話のふるさとと言われるところで部落にはそういう
話の得意なおばあちんがいたものです私もいろいろな話を聞き
ましたが不思議と怖くありませんでした一人で山に入るとキ
ツネにだまされるよともよく言われました実際山の中でキツ
ネに遭遇したこともありますでも私にとては山は決して怖い
ところではなく魅力の宝庫だたのです春は山菜がいぱい
ゼンマイワラビシオデノビルニラカタクリ秋は栗拾い
山栗は小振りでも甘くておいしいのでせと集めました栗が
たくさん拾えるところキノコがたくさん生えているところなど
など山のことを自分の庭のように知ているつもりでしたこう
した山の暮らしの知恵も店づくりに知らず知らずに生かされたと
思います

ふるさとの食材母の味

 父は人を使て土木の仕事をしていましたが家族が食べるくら
いの野菜を賄う畑をやていましたしウサギ豚も飼てい
ました動物の世話は私たち子供の役目周りの友達の家はほとん
どが農家で今日は麦踏みだと聞くと私は嬉々として手伝いに行
きました
 寒い土地柄作物といえばかぼちとうもろこしがい
もなどが穫れましたりんごは作ているものもありましたが
いていの家の庭先にはりんごの木が植えてあて秋には可愛い実が
なりました
 蕎麦の産地としても有名なところですつい先頃まで鉢の木
の蕎麦はいつもここ葛巻産のものを取り寄せていました
 母にねだてよく作てもらたおやつは砂糖を使わずに塩だ
けで煮た塩小豆をそば粉の練たものに包んで焼いたもの
の木を始めてからその味を思い出して塩小豆とそば粉で小さ
なお団子にしてお客様に出したことがあるのですとても喜ばれ
さらに後日糖尿病の父にも食べさせたいから作てほしいと再
度依頼をいただきせと作たことを覚えています
 雪国らしい思い出といえばまずそり遊び木箱の底に板を打ち
付けた手製のそりで家の裏山の斜面を一気に滑るのです裏山に
は柏の木がたくさん立ていてスピドを上げつつ木にぶつから
ないようにそりの舵を取るのが腕の見せどころ家の前に小さな川
が流れていて父が掛けた木の橋があたのですがお転婆な私は
そりでその橋から落ちたことがありました
 特別な行事の時は大きな馬そりを山に押し上げて大勢で乗
滑ります冬はこの馬そりが主な交通手段でもありました学校帰
りに知り合いの馬そりが通ると歓声をあげて追いかけて乗せてもら
たものでした
 家の中には土間をあがてすぐの部屋に幅一間くらいの大きな
囲炉裏があ一抱えもありそうな大きい木の根こを常に燃や
していました薪などよりずと火もちがいいからでしうか
晩中囲炉裏の火の気は絶えなかたと思います燃やした木の根
こは最後は燠といて炭のようになるんですそれで魚やさつま
いもを焼いて食べます油ののたニシンなどを焼くといい匂い
が家中に流れました囲炉裏の上の天井から自在鉤を吊して鍋がか
けられるようになていて調理はもぱら囲炉裏端でしていまし
マツタケを和紙にくるんで灰の中に埋めておくと実にいい具合
に焼けておいしかたのも覚えています専門的な料理は習ては
いませんが食材を大切に生かし味わう喜びは体で覚えていたよ
うに思います

家事見習いそしてホテルのメイドに

 大自然と戯れ温かな家族の中で楽しい子供時代を過ごした私は
学校を卒業すると兄のつてで上京し三菱の岩崎家の執事宅で家
事見習いをすることになりましたやがてそのお宅の御主人が箱
根強羅ホテルの重役だたことからそこで働いてみないかと言わ
れて移りました二十二三の頃のことです世の中はきな臭い
流れが感じられておりやがて戦争勃発それから終戦まで私は
このホテルに勤めていました日本人の多くが空襲にさらされ
活がどんどん苦しくなる時代において私は隔離されたかのように
ほとんど外国人専用のようなこのホテルで空襲を受けることもな
物資の不足もあまり知らずに過ごすことになりました
 ホテルでの仕事はいわゆるメイドの仕事でしたが今になて思
うとお客様へのおもてなしの基本はもとより気配りやマナ
ちり身につけられたよい機会でしたお客さまと廊下ですれ違
う時はこちらが重い物を持ていても必ず一歩引いて黙礼しお客
様を先にお通しすることお客様に食事などを運ぶ時は自分の息
がかからないようにお盆をしかり捧げ持つことお客様に対して
にこやかな笑顔は大切だけれどむやみに笑てはいけないこと
などちり仕込まれましたあくまでもお客様のためにが基
どんな時も自分が一歩引いてという立場をわきまえるそれ
を頭において行動すると自然と洗練された気配りができるように
なるものだと先輩から言われたものです
 グラス磨き階段の手すりの真鍮磨きなどもきれいに仕上げるプ
ロのコツがあるのですそういうさまざまなことを日々体で覚え
ていきました
 仕事の合間にはお茶やお花のお稽古もありましたまた外国
のお客様が多くダンスを好まれたので時には私たち従業員も教え
てもらたりして楽しい雰囲気の現場でした

海外からのお客様

 私が働き始めた頃は日本がドイツやイタリアと同盟を結んで間も
ない頃で裕福なドイツ人の家族が大勢滞在していましたがやが
て戦争が激しくなり上からの命令でしうかロシア人の外交官
とその家族の収容所になていきましたホテルの方針で私もロシ
ア語を勉強されられたものです従業員も若い男性には次々と召
集令状が届き最盛期には百人余りいたものがどんどん少なくな
ていきました
 ロシア人は陽気で毎晩のようにパを開いてにぎやか
に過ごしていました甘いものと紅茶が好きなようでした紅茶は
大きな角砂糖をかじりながら何杯も飲むしコレト菓子など
をよく食べます当時白い米はさすがに不足していたものの
麦粉はありパンはよく焼いていました
 終戦の時のことはよく覚えていますロシアの外交官の方々です
から特殊な情報網があたようで終戦の一日前に皆さん喜び
なさい戦争が終わりましたよと私たち日本人の従業員に教えて
くれたのですそうわかていてもあの八月十五日正午の玉音放
送を聞いた時は皆でわあわあ泣きました
 終戦とともに箱根強羅ホテルは進駐軍に接収されロシア人は
去りアメリカ兵が来るようになりましたまさに時代の変化
界情勢の変化とともに私のもてなすお客様も変わていたといえ
まし

山中湖ニグランドホテルへ

 終戦後まもなく私は山中湖のニグランドホテルに派遣され
ましたそこも進駐軍に接収されアメリカ兵たちの休暇用に使用
されていました箱根のホテルでずとドイツ人やロシア人と一緒
にいて戦時中でも比較的不自由のない生活をしていた私たちにと
ても進駐軍の物資の豊かさは驚くほどでクリスマスの頃など
はチコレバタクルミなどが山ほど届き私たち従業員
にも分けてくれました
 お花を飾るのにも山中湖から神奈川県の平塚までバス一台を
貸し切て買い出しに行くのですそれは私の役目でた一人
でその大きなバスに乗り山中湖から平塚までバスに揺られて行き
ます車窓から見る日本の人々は疲弊しきていて自分が別世界
にいるような一人だけバスに乗ていて申し訳ないような気持ち
になたものですいつだたかあまりに疲れ切た様子でとぼ
とぼ歩くお年寄りを見かねて運転手さんに乗せてあげて下さい
とお願いしましたが規則で他の人は乗せることができないと首
を横に振るばかり何とも切ない思い出の一コマです

山中会の素晴らしいお仲間たち

 この頃ホテルで一緒にお仕事をしたお仲間に大野三夫さんがい
いますのちにホテルオクラで千人ものお客様を覚え
ようこそとお迎えできるドアマンとして名を馳せホテ
ル業の接客最前線で後進に素晴らしいお手本を示され活躍された
方です戦後の日本のホテル業の礎を築いた方ばかりそんな素晴
らしいお仲間とご一緒できたことも私にとてかけがえのない財
産です
 あれから早五十年以上が過ぎ戦中戦後の貧しさと飢えに苦しん
だ日本がこれほど豊かになりホテルの従業員の若い女の子だ
私が自分の店を切り盛りするようになるとは・・・まさに時の流れ
のいたずら運命のおもしろさを感じます今でも年に一度中山
会のお集りのご案内をいただきますが最近は出不精になてしま
て⋯さまざまな分野で活躍されている方々に想いを馳せて
をなつかしく思い出していますいくつになても勉強そんな新
たな気持ちにもなりお店で働くことの喜びもひとしおです

第三章 鉢の木のおもてなし

ぜんざいとおはぎの秘密

 お店を始めてしばらくして食事だけではなくて西洋料理にデ
トがあるように甘味も置いてみようと考えましたでもお客様
にお出しできるような当店ならではの甘味もなく最初は和菓子屋
さんから取り寄せていましたところがある日上野にある有名な
どらやきのお店を訪ねた時のことトラクが着いて何やら仕事
場へ運び込んでいます閃く物がありと見に行きました
び込んでいたのは山のような氷砂糖これがこのお店ならではの餡
の味の秘密だと思いましたそく帰て試してみたところ
それまでにない小豆が煮上がりましたさらに試行錯誤を重ねて
素朴ではありますがこれならばと納得できるぜんざいやおはぎが
できお店のメニとなりましたお土産にできないかと言
てくださる方もありお陰さまで人気メニとなりました
 今では季節の和菓子も当店の手作りでご用意できるまでになり
楽しんでいただいています

映画のロケから生まれた木の実豆腐

 ある時建長寺さんの境内で映画のロケがあると聞きました
ケともなればスタフは大勢だろうしこの辺りには食堂もない
ので昼食時にはきとうちの店に来てくれるに違いないと思い
豆腐を大量に仕入れましたところが仕出し弁当を用意したよう
ついにロケ隊は一人も来店することはありませんでした期待
は空振りたのはたくさんの木綿豆腐の始末です夏の盛り
でしたからとても翌日までもちそうもありませんしかし捨て
るのはもたいないその時に苦し紛れに思いついた料理法が
ず豆腐をザルにあげて水気を切り当たり鉢でなめらかになるまで
擦りクルミや栗などの木の実を加えて砂糖や醤油で味付けし
型に入れてオブンで焼くというものこれなら火を通すので日持
ちしますしさめてもおいしくいただけます名付けて”木の実豆
腐“今では当店の定番メニとなています

抹茶ご飯

 強羅ホテル時代のこと戦後まもない時期でしたがお客様に不
自由させるわけにはいかないので私たち従業員は食事も質素なも
のでしのいでいましたしかしたまには目新しいおいしいものが
食べたいものいつもご飯にお醤油とじこはもう飽きたし何か
目先の変わたものはないかと戸棚を探していたら以前お茶の
お稽古に使た抹茶の残りがあたのですそれを手にした私は
あることがひらめきと待ていてね三十分もあればで
きるからと皆に言いましたそして大急ぎでご飯を炊くと
茶を少量の水で溶き炊きあがたご飯に混ぜ込みました新緑の
ような美しい色のご飯に抹茶のさわやかな香りうすい塩味のご飯
の出来上がりです大喜びで食べてくれ私も大変うれしか
たのを思い出します
 時は流れ豊かな時代になた今この抹茶ご飯は鉢の木
定番メニになています抹茶ならではの色と香りの加減はな
かなかむずかしくコツがいるのですが家ではできない絶妙な風
味とお誉めいただいています

ろうけつ染め

 商売を始める前から私の趣味だたろうけつ染め本覚寺のご住
職の奥様が先生でいつも通うのが楽しみでした布や革を使うも
のもやりましたが私は木製品を染めるのがいちばん好きで茶托
お盆小引き出し手鏡などの作品をたくさん作りました
 まず草木染めの染料をあらかじめ作ておきますそして蝋を
溶かして下絵を描きその蝋が乾いたら上から刷毛で染料を塗り
乾かしますさらに蝋で伏せたいところにまた染料をかけて乾かす
作業を何度か繰り返し仕上げには色止めの六化クロムの液を塗り
火にあぶて蝋を取り除いて出来上がり私の好んだ図案はやはり
草花で自分で自由に描くのがいいのです
 時には夢中になるあまり夜なべまでして作たろうけつ染めの茶
托やお盆を店で使うようになたのですがそのうちお客様から
分けてほしいという声が増えお土産品として販売することに
各店の入口付近にお手製のろうけつ染めの品々が並んでいるのに
そんな理由があたのです

お手玉

 着物の端切れを使てお手玉を作たらそれも可愛いと好評で
お店のお土産品として並ぶことになりましたちりめんなどの生地
の模様を活かした五つのお手玉を袋に入れたセトになています
お手玉の中身は小豆虫食いを防ぐために電子レンジで熱を通し
てから使います
 お手玉がよく売れて材料が端切れでは間に合わなくなり長襦
袢用の反物を買たこともある時袋につける裏地にと手元にあ
た紅絹を使たらとても可愛らしくできましたそれが人気商品
となたのでお客様からのリクエストもあてまた作ろうと紅絹
の反物を探したのですがありません
 当時は白い裏地が流行ていたのでなかなか入手できなか
のですそこで紅絹を染めてもらうことにしましたお手玉のため
とあきれられそうな話ですがお客様のうれしそうな顔を思
い返せばなんとかして作りたいと思たのですいつも一所懸命
できるだけの仕事をして喜んでいただきたいお客様からそんな
元気の源をいただいているのです

輪島塗り

 漆器のことを英語でジパンというそうですが本当にもとも
日本らしい器だと思います
 鉢の木ができて八年した頃でしうか新聞に中国の
漆が高騰したとの記事が出ていました早く揃えないと漆器が高
くなる!と思い三日後にまだ大学生だた息子と息子の友
人の三角幹男君にお願いして輪島まで買い付けに車で出掛けまし
たしか藤の花が咲いていたので五月くらいだたのだと思い
ます今でもその時の輪島塗りの器を大切に使ていますもちろ
何度も塗り替えなどの修理をしながらですが
 日々のお手入れは大変です夕方に従業員総出でひとつひとつ
磨き上げますた後また二度拭きするのですでもこうして
手間をかけるからこそお料理もよくひきたちおもてなしの気持
ちも伝わるように思いますそして何より従業員のみんなも労を
惜しまず手をかけることの充実感を味わい身につけていく様子が
うれしいのです

梅かつおちりめん山椒

 梅の木のないお寺はないほど昔から日本人に愛されてきた梅
早春の鎌倉を歩くとそんな梅の甘い香りがどこからともなくいた
します
 そんな梅の実を使た梅干しはおにぎりには欠かせないもの
当店では毎年さりと漬け込みますその梅干しを使て何か
ご飯のお供によいものをと考えたのが梅かつお梅干しと血合い
のない上質な鰹節を大きな鍋でゆくりと時間をかけてから煎りし
お醤油で味をつけますおにぎりやお粥にぴたりの味お土産品
としても喜ばれています今でもこれは私の担当手塩にかけて作
ています
 もう一つ鉢の木のお土産品として一番人気のちりめん山椒
も私の手作り九州の型の揃たよく乾燥したちりめんじこと
京都の実山椒をさと炊き上げ天日乾燥しますあたたかいご飯
そしてお酒のおつまみにも喜ばれています

婚礼の佳き日に

 おかげさまで本店北鎌倉店北鎌倉新館と三つのお店を構え
るまでになりました恩師を囲む会敬老の日の家族会などのお集
りにもご利用いただくようになりそうした思い出に残る会食をご
用意させていただく喜びはまたひとしおです
 時には披露宴にとご指名くださる方もあり少人数様の披露宴な
らばと精一杯つとめさせていただいていましたそして鶴岡八幡
宮舞殿での結婚式が広く行われるようになた昨年からはよくお
問合せもいただくようにそれならばと当店でも本腰を入れること
になり披露宴のためのチムを作てより喜ばれる北鎌倉らしい
披露宴をみんなで考え準備をいたしましたどうなることかと内
心どきどきしておりましたがひと組目の方の披露宴を垣間見て
鉢の木らしい披露宴ができたと嬉しく思いました
 そして息子の代となり婚礼の佳き日の席に使ていただけるま
でになたことに感慨深いものを感じたことでした

あとがきに代えて

 今までの歩みを本にまとめてほしいと息子に言われた時は
やはり躊躇いたしましたでも息子や孫たちへのメジとして
記しておこうかしらという気持ちになりつらつらと思い出話を
まとめてみました
 忙しくて振り返る間もなく今日に至たものですから記憶を辿
るのはどこか新鮮で楽しくもありましたどんな苦労も過ぎてし
まえば笑い話そう言える平安な日々が今あることに感謝してお
ります
 思い返せばいつでもたくさんの方に支えられて歩いてまいり
ました本文中ではご紹介できませんでしたが次の方々にもたい
へんお世話になりました
富岡畦草さん/定点写真で知られる写真家鉢の木創業当時は
人事院に勤務されガイドブクに鉢の木を掲載し広めていた
だきました
射庭武治さん/鉢の木料理長として長年活躍現在は自由が丘
竹生主人鉢の木新館の料理指導をお願いし今日のスタイ
ルになりました
故小島寅雄さん/元鎌倉市長全国良寛会会長新館開店当時から
鎌倉の文化のためならと惜しみない応援をいただき支えていただ
きました
菊池高夫さん/息子の同級生で足かけ8年もマネとして
鉢の木発展のために貢献していただきました現在は本牧
IKUCHI店主
三浦勝男さん/国宝館館長親子二代にわたりお世話になていま
鎌倉時代の食の再現など鉢の木にいつもいい刺激を与え
てくださいます
 このほか鉢の木の美術品や生け花を担当し25年も務めて
くれている久保喜美子さんをはじめいつの時代にも多くの従業員
の働きのおかげで鉢の木の今日はありますそして鉢の木
を支えてくださる皆様お客様に本当に心から感謝しております
 創業40周年そして私の米寿こんな二つの佳き日を迎えられ
たことは夢のようです皆様と今後ともよきおつきあいをいただ
けますよう心よりお願いいたしますありがとうございました
       平成十六年十一月 吉日       千葉ウメ