鉢の木物語
はじめに

鉢の木創業者 千葉ウメ
物心ついた頃から、我が家にはいつも誰かしら家族以外の人が居たように思います。森岡澄さんは木工を、間瀬菊江さんはろうけつ染めを、他にも子供会や近所の人たちが何かにつけて出入りしていました。今はない平屋の家を思い返せば、そんな温もりのある光景が蘇って来ます。個人の家にしては広かったこともありますが、人が喜ぶことをするのが好きな母を、みなさん慕ってくださったのではないかと今さらながら、ありがたく思います。
『鉢の木』の40周年に当たる今年、母親であり『鉢の木』の創業者である千葉ウメは米寿を迎えます。二つの祝い事が重なった佳きこの機会に、あの平家が店となり今日の『鉢の木』に至るまでのこと、そして母の来し方なども添えて形にしておきたいという想いが強くなりました。
ささやかな冊子ではございますが、出会いに感謝しながら綴られて来た『鉢の木』の物語を母の思い出話をもとに記してみました。お目通しいただければ幸いです。
平成十六年十一月吉日 有限会社 鉢の木 代表取締役 藤川譲治
目 次
出会いに感謝 『鉢の木』物語
第一章 鉢の木にウメの花咲く
第二章 働く喜び、生きる喜び
第三章 『鉢の木』のおもてなし
忘れえぬ日々
第一章 鉢の木にウメの花咲く
『鉢の木』誕生
北鎌倉の建長寺。北条時頼が建立した由緒あるそのお寺の門前の、
小さな仕舞屋で私は思案に暮れていました。
明日からどうやって食べて行こう。一人息子の譲治はまだ小学生。
姑もいます。皆の生活が私一人の肩に掛かっている・・・訳あって、
そういう事情になりました。
すでに私は四十七歳。これまでずっと主婦として家庭の中の働き
に専念していた私にとって、これから先、一家の大黒柱としてがん
ばっていくことなど途方もないことのように思えました。しかし、
考えていても始まりません。いえ、考えている余裕などありません。
私にできることをやるしかない、そう思った時、浮かんだのは、食
べ物屋さんでした。
そういえば、私の家は、以前は奈良漬寿司のお店だったようで、
私たちが住むようになってからも、まだお寿司屋さんをやっている
と勘違いした人が入ってきて、こちらも驚いたことがありました。
そんなことも思い出しながら、地の利は悪くない、という確信を持
ちました。
そうはいっても、当時はこの辺りはほとんど店らしい店もない静
かすぎるほどの場所でしたから、こんなところで商売をやるなんて
と反対する人もいましたが、建長寺さんの門前でもあり、参拝客を
あてにする気持ちもありました。
そして峠の茶屋ではないけれど、緑深いこの道を歩いてきて一休
みするような店として、おにぎりに野菜の精進揚げを添えて出した
らどうかしら・・・。それなら私にもできそうだと思ったのです。
やってみて、もし、だめだったら、その時は下宿屋でもやれば何
とかなる、と腹をくくりました。決心したら後ろは振り返らないの
が私の性分。早速店の開店準備にかかりました。
開店にあたっては、大勢の方にお世話になりました。いちばん相
談にのっていただいたのが大石正雄さん、恭子さんご夫妻でした。
恭子さんとはろうけつ染めの仲間で、ご自分で商売をした経験があ
るというので、真っ先に相談したところ、会社経営をしている御主
人の正雄さんも親身になって何かとアドバイスを下さいました。そ
の後、物心両面において私が一番苦しかった時に支えてくださった、
まさに『鉢の木』の恩人のような方々で、息子の結婚の際には仲人
もお願いしたほどです。
『鉢の木』店名の由来
店の名前は、友人の間瀬さんが「建長寺の門前という立地だし、
建物の雰囲気を見ても、『鉢の木』がぴったりよ」と勧めてくれて
決まりました。歴史や仏像のことなどを研究するのが趣味だった間
瀬さんは、謡曲『鉢木』にまつわる故事をよく知っていて、私の店
の名に、と提案してくれたのでした。
ここに、当店の名前の由来となった謡曲『鉢木』にまつわる故事
をご披露しましょう。
−鎌倉時代のこと。ある雪の夜であった。
上野の国佐野の里に、源左衛門常世という貧しい男が暮らしてい
たが、そのあばら家に、道に迷ったという旅の僧が一夜の宿を求め
てきた。常世は気の毒に思い、すぐに家の中に招き入れた。
しかし、凍えるような寒さであったが、貧しさゆえ囲炉裏にくべ
る薪がない。常世は櫃の中にわずかに残った粟を粥にして、僧にす
すめた。
それでも体はどうにも温まらない。
そこで、常世はどんなに貧しても手放さず家宝のごとく大事にし
てきた鉢植えの梅、松、桜を切って、囲炉裏に火をおこしてくべた。
そうして、暖をとることが、旅の僧への精一杯のもてなしであった
のだ。
貴重な鉢の木を炊いた囲炉裏で膝を寄せながら、常世は我が身の
不遇を僧に語った。
自分は一族の裏切りにあって今はこのような落ちぶれた身である
と。
しかし、またこうも語った。
いかなる暮らしにあっても未だ心は御家人の忠誠を持っている。
鎌倉にひとたび大事が起きたなら、一番にかけつけて命を捨てても
幕府のために戦うつもりである。
翌朝、僧は「これほどの心のこもったもてなしを受けたことはな
い」と礼を言って立ち去った。
実はこの僧は、五代目執権北条時頼であった。時頼は出家して執
権の座を北条長時に譲り、自分は諸国の御家人や民衆の実情を知ろ
うと、旅の僧の姿となってたった一人のお供を連れて諸国行脚の旅
をしていたのだ。
幕府に帰った時頼は、上野の国の武士たちに「鎌倉の一大事、即
馳せ参じよ」と命令を出した。すると、常世は雪の夜に語った通り
真っ先に馳せ参じた。そうしてあの時の旅の僧が時頼だったことを
知る。時頼は、常世の嘘偽りのない言動を誉め、また極貧の中にあ
っても見ず知らずの旅人のために最も大切にしていた鉢の木を燃や
してもてなした心を賞して、恩賞を与えたという。
源左衛門常世が貧しさゆえに何もないながらも家宝の鉢の木で火
を焚き精一杯のおもてなしをしたように、私も立派な板前さんのよ
うな料理は到底できないけれど、主婦として培ってきた家庭料理の
おいしさを提供し、おもてなしの心を精一杯尽くしたいと思いまし
た。『鉢の木』という名前はまさにぴったりのよい名前だと、すぐ
に気に入りました。そして後に新館が建った辺りは、出家した時頼
が、住まいとした最明寺のあったところだとか│。不思議な因縁を
感じずにはいられませんでした。
『鉢の木』の看板を作ってくれたのは、森岡澄さんです。森岡さ
んはアイヌ彫りの彫刻をしていた方で、当時はわが家の入口の土間
を仕事場として貸していたのですが、事情を知って自分から看板製
作を申し出てくれたのでした。アイヌ彫りらしい素朴さの中に情熱
の感じられるすばらしい『鉢の木』の看板ができ上がりました。
創業当時のこと
こうして、周りの方々の助けを得て、昭和三十九年二月二十六日、
『鉢の木』は開店したのです。森岡さん作の看板を玄関脇に掲げ、
戸口には私のお手製のろうけつ染めの暖簾を掛けました。
三角にむすんだおにぎり三個、ニンジンやゴボウ、インゲン、シ
イタケのかき揚げ、ナスの揚げたもの、揚げ田楽、などを盛った小
さなざる。季節の野菜のおみそ汁。私が自宅用に漬けていた糠漬け。
それらを半月のお盆にのせて、お客様に出しました。最初は二百五
十円か三百円ほどだったと思います。
ところが、特別に宣伝をしたわけでもなく、ましてや私が風邪を
ひいたことで延び延びになった挙げ句の開店ですから、ここでおに
ぎり屋が始まったことなどほとんど知られず、お客様がなかなか来
ません。建物の通りに面したところが店、奥は家族の住まいとして
いましたが、姑はなかなか来ないお客を待っているのが辛いという
ので、近くのアパートへ転居することになりました。毎日やきもき
させて、疲れさせてしまったのでしょう。
開店休業状態のような辛い日が続きました。それでもぼつぼつと
通りすがりに看板を見て入ってくれるお客様を相手に精一杯の仕事
をして、根気よく店を開いているうちに日を追ってお客様が増えて
きたのです。
手作りのおいしいおにぎりや精進揚げを出す店がある、と一度来
てくれたお客様の口コミで評判となったようで、うれしいことでし
た。また、ちょうど東京オリンピックの年でしたが、この頃は高度
経済成長の時代であり、ようやく日本人の生活にゆとりが持てるよ
うになった頃でもありました。働きづめだった生活からレジャーと
いう発想が定着しつつあり、鎌倉も観光地としてにぎわい始めまし
た。雑誌などが「行ってみたい街・鎌倉」と特集を組む度に訪れる
人が増え、当店もこうした観光客の姿が増えていきました。
そのうち、私一人の手には負えなくなり、近所の奥さんなどにお
手伝いに来てもらうようになりました。それも臨時から、やがて常
時へと勤務態勢をお願いするまでに、店の忙しさは増すばかりとな
りました。
初めての団体のお客様
わが家の裏に鈴木さんという大工さん夫婦が住んでおり、そこの
奥さんもうちで働いてくれた一人でした。まだ二十一、二の若い方
でしたが、仕事が丁寧でいて手早く感心したものです。おにぎりも
私が三個握る間に鈴木さんは五、六個握ってしまうという具合。御
主人にも、店の細々した修繕などをお願いすると、気軽に引き受け
てくれました。
知り合いの姪御さんにも手伝ってもらったことがありますが、あ
る時、三、四十人の団体のお客様が急に見えた時のことです。まだ
半分素人の私は途方に暮れてお断りしようかと思いました。ところ
が、その娘さんが「大丈夫ですからお受けしましょう」と言ってく
れ、全員にお盆を出して対処することができました。懐石盆が足り
ない時は、近所に借りに走ったことも懐かしい思い出です。
困ったことといえば帳簿つけもそのひとつでした。私はどちらか
といえばお金の計算には疎かったので、開業してからしばらくの間、
大石夫妻が帳簿をつけたり、経理面の面倒をみてくれたものです。
開店して二カ月くらいたった頃でしょうか、ある学校のPTA役
員の方々が来店し、お食事の予約をしたいとのこと。話を聞くと、
五十人ほどというので、慌てました。「ありがたいお話ですがそれ
だけの人数をもてなすには十分な人手もなく、とても無理です」と
お断りすると、なんと「私たちが朝から来て手伝いますから、是非
受けて下さい」と言うではありませんか。それでお受けすることに
なったのですが、役員さんたちは本当に朝早くから来て手伝ってく
れました。お客様に手伝ってもらうなど、まさに始めたばかりの未
熟な店ならではのエピソードだと思います。
仕事が仕事を教えてくれる
お客様の声を参考にして、工夫を重ねるうちに、料理についても
おにぎりと精進揚げのメニューから少しずつ種類が増えてきました。
こうしておおぜいの方に助けられながら、何とか店は毎日営業を
続けていきました。この店は従業員やお客様に育てられ、そういう
方々と一緒に歩んできたといっても過言ではありません。私一人で
始めた小さな店が、だんだん北鎌倉のこの地で根付いていくようで、
うれしくもありました。
そして、綱渡りのように毎日をこなしていくうちに、「できない」
と言ってしまったらそれきりだっただろうことが、「できない」と
言わないで一所懸命取り組むことでできてしまう力。どんなことも
諦めず経験を積むうちに可能性が広がっていくことを実感するよう
になりました。仕事に教えられたといいましょうか。今でも、私の
口癖は「一生懸命やっていれば仕事が仕事を教えてくれるもの」。
長年変わらない私の、そして『鉢の木』の仕事の精神といえるかも
しれません。
石の上にも三年
ちょうどその頃、鎌倉在住の作家・永井路子さんがたまたまお店
にいらしたことがあり、『鉢の木』を気に入ってくれたようで、永
井さんの紹介で東京のテレビ局が取材に来ました。放映された内容
は、まず店の正面が大きく映し出され、続けて、当店の料理が画面
に出ると、永井さんがそこにコメントを加えるというものでした。
「このかぼちゃ、おいしかったのよ」と永井さんが誉めてくださっ
たかぼちゃの煮物も、私にしたらごく普通に煮たものなのですが、
その素朴さがかえってよかったのかもしれません。
このテレビ放映の後、「テレビを観て」と言って足を運んでくだ
さったお客様がずいぶんあり、売り上げも増えたものでした。
しかし、いい日ばかりではありません。どんな商売も波のあるも
の、私の店もぱったりと客足が途絶えたことが何回もありました。
商売の閑散期は二八といわれる通り、特に夏真っ盛りの暑い日は客
足が遠のきがち。こんな時はとにかくあせってもだめ。じっと我慢
するしかありません。大阪商人の言葉「商いは飽きない」とはうま
いことを言ったものです。暇だからと放り出してはだめ、飽きたら
だめ。暇な時は暇なりに工夫して過ごし、またお客様が来る時を待
つのです。新しい料理を考案したり、お土産用に店先に並べるお手
玉やろうけつ染めの制作に精を出しました。
こうして、商売の雨の日も晴れの日も経験していくうちに、この
商売でやっていけると自信が持てるようになったのは、開店して三
年目の頃だったと思います。昔から「石の上にも三年」と言います
が、本当にその通り。多い時には一日に四百人ものお客様がいらし
たこともありました。その時の忙しさといったら、この小さな店に
入れ替わり立ち替わりお客様がひっきりなしにお出でになり、私も
店の者たちも一日中立ちっぱなしで食事をする間もありませんでし
た。それでも、お客様の応対をしている時は疲れを感じることもな
く、動きづくめです。あのころの奮闘ぶりを思い起こすと、我なが
ら、若かったな、よくやったな、と今でも感心するほどです。
そうして、一度来てくださったお客様が次のお客様を連れて来て
下さるようになり、年々店は繁盛していきました。
店の成長、息子の成長
ずっと経理の面を見ていただいた大石さんの勧めもあって、昭和
四十四年四月、店を有限会社『鉢の木』として設立し、私が社長に
就任しました。五年目でここまでになったことに感慨もひとしお、
と同時に、社長という肩書きがずっしり重くもありました。しかし、
こうして法人化したことで、「これでずっとやっていく」という決
意を新たにもした身の引き締まるような思いをよく覚えています。
小学生だった息子も高校生になっていました。
母親の私はずっと働きづめで、息子には寂しい思いをさせてばか
りだったことでしょう。朝は六時頃から夜は七時、八時まで店で働
くばかり、学校の父母会などにもほとんど出られませんでした。
でも、食べていくのに必死で始めた仕事ですし、必死で働いた甲
斐があって店は会社組織にまでなりました。経営者になると、お客
様の信頼を得ることはもちろん大事ですが、加えて従業員への責任
もあり、体がいくつあっても足りないほどです。頭の中は絶えず店
のことでいっぱい。昼間、店で気にかかることがあると、夜中にふ
っと目が覚めてそのことを考えてしまいます。何日もの間、天ぷら
にするおもしろい材料はないかなと思っていたのが、ふと、寝床に
入ってから、タンポポはどうだろうと思いついて起き出してメモを
取ることもあります。そんなふうに、睡眠時間が縮まるのもしょっ
ちゅう。二、三時間の眠りを取って、朝起きるとすぐにその日の献
立の下ごしらえにかかります。
それでも、私の働く姿を見て育った息子は、多感な時期も大きく
道をはずすことなく、成長してくれました。
息子は大学卒業後、自らの意志でこの店の後継者の道を選びまし
た。当時、うちの板前として働いていた射庭武治さんの紹介で、京
都・岡崎の『美濃吉』さんでの修行を経て、『鉢の木』に入りまし
た。
それからは経営の面でも力がつき、時代の波にも乗って、昭和五
十四年には北鎌倉駅寄りに支店(現・北鎌倉店)を、平成二年には
さらにその隣に新館を開店するまでになりました。こうした一連の
出店計画から実行までは息子の功労です。いつのまにかたくましく
成長し、経営者としての才覚を著しており、もはや『鉢の木』の経
営を支えているのは彼でした。全容を考えても、企業としての経営
力がさらに求められる時期にもなっていました。そこで、平成四年、
息子が社長に就任、私は会長職に退いたのです。
かつて、住まいの一角で始めた店は、今では北鎌倉に三店鋪とな
り、台山に建てた自宅で私は息子の家族と一緒に暮らしています。
それでも、相変わらず私は毎日出勤しています。店で働いている
時がいちばん楽しいのです。いつまでも働ける健康に感謝、仕事を
通じて恵まれたたくさんの出会いにも感謝するばかりです。
第二章 働く喜び、生きる喜び
主婦だった私が始めた食べ物屋ですが、幼い頃の故郷での体験や
若い頃に経験してきたことすべてが、仕事に生かされるのだとよく
実感いたします。『鉢の木』らしさをかもし出しているものは、そ
んな事ごとにも根ざしているのでしょう。そこで少し、そんな思い
出話などもこの機会にお話したいと思います。
ふるさと岩手の自然
店を始めた頃のわが家の周囲といえば、まだ建物が多くなく、野
草や花がふんだんに息づいていました。フキノトウ、セリ、コゴミ、
ゼンマイ、タラの芽などの山菜を摘んでは天ぷらなどちょっとした
料理を作ったものです。スミレやタンポポをはじめ草花も色とりど
りに咲いていました。
私はもともと花屋さんで売っている花よりも、野に咲く小さな花
に惹かれます。店をやるようになってからは、おいしい料理ととも
に、常に季節の花を絶やさないよう心がけてきました。
こうした自然を愛する心は、山間の村に生まれ育ったことも影響
しているかもしれません。
私のふるさとは、岩手県九戸郡葛巻村。青森県寄りの北部にあり、
村を縦断するように馬淵川が流れる静かな山里でした。生家は土木
業を営んでおり、私はそこの五人兄妹の長女として、大正五年六月
一日に生まれました。役場への届けが六月ということですが、昔の
ことですから、ウメという名前からすれば三月か四月に生まれたの
ではないかと思います。
汽車に乗るには沼宮内という東北本線の小さな駅が最寄り駅、そ
こまで行くにはずいぶんかかったように記憶しています。
子供の遊び場は山や川。私は山歩きが大好きでした。一人でも平
気で山に入って遊びました。
岩手は、民話のふるさとと言われるところで、部落にはそういう
話の得意なおばあちゃんがいたものです。私もいろいろな話を聞き
ましたが、不思議と怖くありませんでした。「一人で山に入るとキ
ツネにだまされるよ」ともよく言われました。実際、山の中でキツ
ネに遭遇したこともあります。でも、私にとっては山は決して怖い
ところではなく、魅力の宝庫だったのです。春は山菜がいっぱい。
ゼンマイ、ワラビ、シオデ、ノビル、ニラ、カタクリ。秋は栗拾い。
山栗は小振りでも甘くておいしいので、せっせと集めました。栗が
たくさん拾えるところ、キノコがたくさん生えているところ、など
など、山のことを自分の庭のように知っているつもりでした。こう
した山の暮らしの知恵も、店づくりに知らず知らずに生かされたと
思います。
ふるさとの食材、母の味
父は人を使って土木の仕事をしていましたが、家族が食べるくら
いの野菜を賄う畑をやっていましたし、ウサギ、鶏、豚も飼ってい
ました。動物の世話は私たち子供の役目。周りの友達の家はほとん
どが農家で、今日は麦踏みだと聞くと、私は嬉々として手伝いに行
きました。
寒い土地柄、作物といえば、かぼちゃ、とうもろこし、じゃがい
もなどが穫れました。りんごは作っているものもありましたが、た
いていの家の庭先にはりんごの木が植えてあって秋には可愛い実が
なりました。
蕎麦の産地としても有名なところです。つい先頃まで『鉢の木』
の蕎麦はいつもここ葛巻産のものを取り寄せていました。
母にねだってよく作ってもらったおやつは、砂糖を使わずに塩だ
けで煮た塩小豆を、そば粉の練ったものに包んで焼いたもの。『鉢
の木』を始めてから、その味を思い出して、塩小豆とそば粉で小さ
なお団子にしてお客様に出したことがあるのです。とても喜ばれ、
さらに後日「糖尿病の父にも食べさせたいから作ってほしい」と再
度依頼をいただき、せっせと作ったことを覚えています。
雪国らしい思い出といえば、まずそり遊び。木箱の底に板を打ち
付けた手製のそりで、家の裏山の斜面を一気に滑るのです。裏山に
は柏の木がたくさん立っていて、スピードを上げつつ木にぶつから
ないようにそりの舵を取るのが腕の見せどころ。家の前に小さな川
が流れていて、父が掛けた木の橋があったのですが、お転婆な私は
そりでその橋から落ちたことがありました。
特別な行事の時は、大きな馬そりを山に押し上げて大勢で乗って
滑ります。冬はこの馬そりが主な交通手段でもありました。学校帰
りに知り合いの馬そりが通ると歓声をあげて追いかけて乗せてもら
ったものでした。
家の中には、土間をあがってすぐの部屋に幅一間くらいの大きな
囲炉裏があって、一抱えもありそうな大きい木の根っこを常に燃や
していました。薪などよりずっと火もちがいいからでしょうか、一
晩中囲炉裏の火の気は絶えなかったと思います。燃やした木の根っ
こは最後は燠といって炭のようになるんです。それで、魚やさつま
いもを焼いて食べます。油ののったニシンなどを焼くと、いい匂い
が家中に流れました。囲炉裏の上の天井から自在鉤を吊して鍋がか
けられるようになっていて、調理はもっぱら囲炉裏端でしていまし
た。マツタケを和紙にくるんで灰の中に埋めておくと実にいい具合
に焼けておいしかったのも覚えています。専門的な料理は習っては
いませんが、食材を大切に生かし、味わう喜びは体で覚えていたよ
うに思います。
家事見習い、そしてホテルのメイドに
大自然と戯れ、温かな家族の中で楽しい子供時代を過ごした私は、
学校を卒業すると、兄のつてで上京し、三菱の岩崎家の執事宅で家
事見習いをすることになりました。やがて、そのお宅の御主人が箱
根強羅ホテルの重役だったことから、そこで働いてみないかと言わ
れて、移りました。二十二、三の頃のことです。世の中はきな臭い
流れが感じられており、やがて戦争勃発。それから終戦まで、私は
このホテルに勤めていました。日本人の多くが空襲にさらされ、生
活がどんどん苦しくなる時代において、私は隔離されたかのように、
ほとんど外国人専用のようなこのホテルで、空襲を受けることもな
く、物資の不足もあまり知らずに過ごすことになりました。
ホテルでの仕事はいわゆるメイドの仕事でしたが、今になって思
うと、お客様へのおもてなしの基本はもとより、気配りやマナーを
きっちり身につけられたよい機会でした。お客さまと廊下ですれ違
う時はこちらが重い物を持っていても必ず一歩引いて黙礼し、お客
様を先にお通しすること。お客様に食事などを運ぶ時は、自分の息
がかからないようにお盆をしっかり捧げ持つこと。お客様に対して
にこやかな笑顔は大切だけれど、むやみに笑ってはいけないこと。
など、きっちり仕込まれました。あくまでもお客様のために、が基
本。どんな時も自分が一歩引いて、という立場をわきまえる。それ
を頭において行動すると、自然と洗練された気配りができるように
なるものだと先輩から言われたものです。
グラス磨き、階段の手すりの真鍮磨きなどもきれいに仕上げるプ
ロのコツがあるのです。そういうさまざまなことを日々、体で覚え
ていきました。
仕事の合間には、お茶やお花のお稽古もありました。また、外国
のお客様が多くダンスを好まれたので、時には私たち従業員も教え
てもらったりして、楽しい雰囲気の現場でした。
海外からのお客様
私が働き始めた頃は日本がドイツやイタリアと同盟を結んで間も
ない頃で、裕福なドイツ人の家族が大勢滞在していましたが、やが
て戦争が激しくなり、上からの命令でしょうか、ロシア人の外交官
とその家族の収容所になっていきました。ホテルの方針で私もロシ
ア語を勉強されられたものです。従業員も、若い男性には次々と召
集令状が届き、最盛期には百人余りいたものがどんどん少なくなっ
ていきました。
ロシア人は陽気で、毎晩のようにパーティーを開いて、にぎやか
に過ごしていました。甘いものと紅茶が好きなようでした。紅茶は
大きな角砂糖をかじりながら何杯も飲むし、チョコレート菓子など
をよく食べます。当時、白い米はさすがに不足していたものの、小
麦粉はあり、パンはよく焼いていました。
終戦の時のことはよく覚えています。ロシアの外交官の方々です
から特殊な情報網があったようで、終戦の一日前に「皆さん、喜び
なさい。戦争が終わりましたよ」と私たち日本人の従業員に教えて
くれたのです。そうわかっていても、あの八月十五日正午の玉音放
送を聞いた時は、皆でわあわあ泣きました。
終戦とともに、箱根強羅ホテルは進駐軍に接収され、ロシア人は
去り、アメリカ兵が来るようになりました。まさに時代の変化、世
界情勢の変化とともに私のもてなすお客様も変わっていったといえ
ましょう。
山中湖ニューグランドホテルへ
終戦後まもなく、私は山中湖のニューグランドホテルに派遣され
ました。そこも進駐軍に接収され、アメリカ兵たちの休暇用に使用
されていました。箱根のホテルでずっとドイツ人やロシア人と一緒
にいて、戦時中でも比較的不自由のない生活をしていた私たちにと
っても、進駐軍の物資の豊かさは驚くほどで、クリスマスの頃など
はチョコレート、バター、クルミなどが山ほど届き、私たち従業員
にも分けてくれました。
お花を飾るのにも、山中湖から神奈川県の平塚まで、バス一台を
貸し切って買い出しに行くのです。それは私の役目で、たった一人
でその大きなバスに乗り、山中湖から平塚までバスに揺られて行き
ます。車窓から見る日本の人々は疲弊しきっていて、自分が別世界
にいるような、一人だけバスに乗っていて申し訳ないような気持ち
になったものです。いつだったか、あまりに疲れ切った様子でとぼ
とぼ歩くお年寄りを見かねて、運転手さんに「乗せてあげて下さい」
とお願いしましたが、規則で他の人は乗せることができない、と首
を横に振るばかり。何とも切ない思い出の一コマです。
山中会の素晴らしいお仲間たち
この頃、ホテルで一緒にお仕事をしたお仲間に大野三夫さんがい
らっしゃいます。のちにホテルオークラで千人ものお客様を覚え「
○○様、ようこそ」とお迎えできるドアマンとして名を馳せ、ホテ
ル業の接客最前線で後進に素晴らしいお手本を示され、活躍された
方です。戦後の日本のホテル業の礎を築いた方ばかり。そんな素晴
らしいお仲間とご一緒できたことも、私にとってかけがえのない財
産です。
あれから早五十年以上が過ぎ、戦中戦後の貧しさと飢えに苦しん
だ日本がこれほど豊かになり、ホテルの従業員の若い女の子だった
私が自分の店を切り盛りするようになるとは・・・まさに時の流れ
のいたずら、運命のおもしろさを感じます。今でも年に一度、中山
会のお集りのご案内をいただきますが、最近は出不精になってしま
って⋯。さまざまな分野で活躍されている方々に想いを馳せて、昔
をなつかしく思い出しています。いくつになっても勉強、そんな新
たな気持ちにもなり、お店で働くことの喜びもひとしおです。
第三章 「鉢の木」のおもてなし
ぜんざいとおはぎの秘密
お店を始めてしばらくして、食事だけではなくて、西洋料理にデ
ザートがあるように甘味も置いてみようと考えました。でもお客様
にお出しできるような当店ならではの甘味もなく、最初は和菓子屋
さんから取り寄せていました。ところがある日、上野にある有名な
どらやきのお店を訪ねた時のこと。トラックが着いて、何やら仕事
場へ運び込んでいます。閃く物があり、そっと見に行きました。運
び込んでいたのは山のような氷砂糖。これがこのお店ならではの餡
の味の秘密だと、思いました。さっそく帰って試してみたところ、
それまでにない小豆が煮上がりました。さらに試行錯誤を重ねて、
素朴ではありますが、これならばと納得できるぜんざいやおはぎが
でき、お店のメニューとなりました。「お土産にできないか」と言
ってくださる方もあり、お陰さまで人気メニューとなりました。
今では季節の和菓子も当店の手作りでご用意できるまでになり、
楽しんでいただいています。
映画のロケから生まれた木の実豆腐
ある時、建長寺さんの境内で映画のロケがあると聞きました。ロ
ケともなれば、スタッフは大勢だろうし、この辺りには食堂もない
ので、昼食時にはきっとうちの店に来てくれるに違いないと思い、
豆腐を大量に仕入れました。ところが、仕出し弁当を用意したよう
で、ついにロケ隊は一人も来店することはありませんでした。期待
は空振り。困ったのは、たくさんの木綿豆腐の始末です。夏の盛り
でしたから、とても翌日までもちそうもありません。しかし、捨て
るのはもったいない。その時に苦し紛れに思いついた料理法が、ま
ず豆腐をザルにあげて水気を切り、当たり鉢でなめらかになるまで
擦り、クルミや栗などの木の実を加えて、砂糖や醤油で味付けし、
型に入れてオーブンで焼くというもの。これなら火を通すので日持
ちしますし、さめてもおいしくいただけます。名付けて”木の実豆
腐“。今では当店の定番メニューとなっています。
抹茶ご飯
強羅ホテル時代のこと。戦後まもない時期でしたが、お客様に不
自由させるわけにはいかないので、私たち従業員は食事も質素なも
のでしのいでいました。しかし、たまには目新しいおいしいものが
食べたいもの。いつもご飯にお醤油とじゃこはもう飽きたし、何か
目先の変わったものはないかと戸棚を探していたら、以前、お茶の
お稽古に使った抹茶の残りがあったのです。それを手にした私は、
あることがひらめき、「ちょっと待っていてね、三十分もあればで
きるから」と皆に言いました。そして、大急ぎでご飯を炊くと、抹
茶を少量の水で溶き、炊きあがったご飯に混ぜ込みました。新緑の
ような美しい色のご飯に抹茶のさわやかな香り、うすい塩味のご飯
の出来上がりです。皆、大喜びで食べてくれ、私も大変うれしかっ
たのを思い出します。
時は流れ、豊かな時代になった今、この抹茶ご飯は『鉢の木』の
定番メニューになっています。抹茶ならではの色と香りの加減はな
かなかむずかしく、コツがいるのですが、家ではできない絶妙な風
味とお誉めいただいています。
ろうけつ染め
商売を始める前から私の趣味だったろうけつ染め。本覚寺のご住
職の奥様が先生で、いつも通うのが楽しみでした。布や革を使うも
のもやりましたが、私は木製品を染めるのがいちばん好きで、茶托、
お盆、小引き出し、手鏡などの作品をたくさん作りました。
まず、草木染めの染料をあらかじめ作っておきます。そして蝋を
溶かして下絵を描き、その蝋が乾いたら上から刷毛で染料を塗り、
乾かします。さらに蝋で伏せたいところにまた染料をかけて乾かす
作業を何度か繰り返し、仕上げには色止めの六化クロムの液を塗り、
火にあぶって蝋を取り除いて出来上がり。私の好んだ図案はやはり
草花で、自分で自由に描くのがいいのです。
時には夢中になるあまり夜なべまでして作ったろうけつ染めの茶
托やお盆を店で使うようになったのですが、そのうち、お客様から
「分けてほしい」という声が増え、お土産品として販売することに。
各店の入口付近に、お手製のろうけつ染めの品々が並んでいるのに
は、そんな理由があったのです。
お手玉
着物の端切れを使ってお手玉を作ったら、それも可愛いと好評で、
お店のお土産品として並ぶことになりました。ちりめんなどの生地
の模様を活かした五つのお手玉を袋に入れたセットになっています。
お手玉の中身は小豆。虫食いを防ぐために、電子レンジで熱を通し
てから使います。
お手玉がよく売れて、材料が端切れでは間に合わなくなり、長襦
袢用の反物を買ったことも。ある時、袋につける裏地にと手元にあ
った紅絹を使ったらとても可愛らしくできました。それが人気商品
となったので、お客様からのリクエストもあってまた作ろうと紅絹
の反物を探したのですがありません。
当時は白い裏地が流行っていたので、なかなか入手できなかった
のです。そこで紅絹を染めてもらうことにしました。お手玉のため
に││とあきれられそうな話ですが、お客様のうれしそうな顔を思
い返せば、なんとかして作りたいと思ったのです。いつも一所懸命、
できるだけの仕事をして、喜んでいただきたい。お客様からそんな
元気の源をいただいているのです。
輪島塗り
漆器のことを英語でジャパンというそうですが、本当にもっとも
日本らしい器だと思います。
『鉢の木』ができて、七、八年した頃でしょうか。新聞に中国の
漆が高騰したとの記事が出ていました。「早く揃えないと漆器が高
くなる!」と思い、二、三日後にまだ大学生だった息子と息子の友
人の三角幹男君にお願いして、輪島まで買い付けに車で出掛けまし
た。たしか藤の花が咲いていたので、五月くらいだったのだと思い
ます。今でもその時の輪島塗りの器を大切に使っています。もちろ
ん、何度も塗り替えなどの修理をしながらですが。
日々のお手入れは大変です。夕方に従業員総出で、ひとつひとつ
磨き上げます。洗った後、また二度拭きするのです。でもこうして
手間をかけるからこそ、お料理もよくひきたち、おもてなしの気持
ちも伝わるように思います。そして何より、従業員のみんなも労を
惜しまず手をかけることの充実感を味わい、身につけていく様子が
うれしいのです。
梅かつお、ちりめん山椒
梅の木のないお寺はないほど、昔から日本人に愛されてきた梅。
早春の鎌倉を歩くと、そんな梅の甘い香りがどこからともなくいた
します。
そんな梅の実を使った梅干しは、おにぎりには欠かせないもの。
当店では毎年、どっさりと漬け込みます。その梅干しを使って何か
ご飯のお供によいものを、と考えたのが梅かつお。梅干しと血合い
のない上質な鰹節を大きな鍋でゆっくりと時間をかけてから煎りし、
お醤油で味をつけます。おにぎりやお粥にぴったりの味、お土産品
としても喜ばれています。今でもこれは私の担当。手塩にかけて作
っています。
もう一つ、『鉢の木』のお土産品として一番人気のちりめん山椒
も私の手作り。九州の型の揃ったよく乾燥したちりめんじゃこと、
京都の実山椒をさっと炊き上げ、天日乾燥します。あたたかいご飯、
そしてお酒のおつまみにも喜ばれています。
婚礼の佳き日に
おかげさまで本店、北鎌倉店、北鎌倉新館と、三つのお店を構え
るまでになりました。恩師を囲む会、敬老の日の家族会などのお集
りにもご利用いただくようになり、そうした思い出に残る会食をご
用意させていただく喜びはまたひとしおです。
時には披露宴にとご指名くださる方もあり、少人数様の披露宴な
らばと、精一杯つとめさせていただいていました。そして鶴岡八幡
宮舞殿での結婚式が広く行われるようになった昨年からは、よくお
問合せもいただくように。それならばと当店でも本腰を入れること
になり、披露宴のためのチームを作ってより喜ばれる北鎌倉らしい
披露宴をみんなで考え、準備をいたしました。どうなることかと内
心どきどきしておりましたが、ひと組目の方の披露宴を垣間見て、
『鉢の木』らしい披露宴ができたと、嬉しく思いました。
そして息子の代となり、婚礼の佳き日の席に使っていただけるま
でになったことに、感慨深いものを感じたことでした。
あとがきに代えて
「今までの歩みを本にまとめてほしい」と息子に言われた時は、
やはり躊躇いたしました。でも息子や孫たちへのメッセージとして
記しておこうかしら、という気持ちになり、つらつらと思い出話を
まとめてみました。
忙しくて振り返る間もなく今日に至ったものですから、記憶を辿
るのはどこか新鮮で、楽しくもありました。どんな苦労も過ぎてし
まえば笑い話。そう言える平安な日々が今あることに、感謝してお
ります。
思い返せば、いつでもたくさんの方に支えられて、歩いてまいり
ました。本文中ではご紹介できませんでしたが、次の方々にもたい
へんお世話になりました。
富岡畦草さん/定点写真で知られる写真家。『鉢の木』創業当時は
人事院に勤務され、ガイドブックに『鉢の木』を掲載し広めていた
だきました。
射庭武治さん/『鉢の木』料理長として長年活躍。現在は自由が丘
『竹生』主人。『鉢の木』新館の料理指導をお願いし今日のスタイ
ルになりました。
故小島寅雄さん/元鎌倉市長、全国良寛会会長。新館開店当時から、
鎌倉の文化のためならと惜しみない応援をいただき、支えていただ
きました。
菊池高夫さん/息子の同級生で、足かけ8年もマネージャーとして
『鉢の木』発展のために貢献していただきました。現在は本牧『K
IKUCHI』店主。
三浦勝男さん/国宝館館長。親子二代にわたりお世話になっていま
す。鎌倉時代の食の再現など、『鉢の木』にいつもいい刺激を与え
てくださいます。
このほか『鉢の木』の美術品や生け花を担当し、25年も務めて
くれている久保喜美子さんをはじめ、いつの時代にも多くの従業員
の働きのおかげで『鉢の木』の今日はあります。そして『鉢の木』
を支えてくださる皆様、お客様に本当に、心から感謝しております。
創業40周年、そして私の米寿。こんな二つの佳き日を迎えられ
たことは、夢のようです。皆様と今後ともよきおつきあいをいただ
けますよう、心よりお願いいたします。ありがとうございました。
平成十六年十一月 吉日 千葉ウメ
