浄智寺




浄智寺
浄智寺
北条宗政(時宗の弟)が弘安4年(1281)に亡くなると宗政夫人は、亡夫と幼少の子師時を開基にして創建。開山兀菴普寧 (ごったんふねい)、請待開山は大休正念、準開山は南州宏海の3人が名を連ねています。臨済宗円覚寺派の鎌倉五山第四位の名刹。当時は塔頭11院あり、伽藍が完備し相当の大きさを誇りました。今でも寺域は拝領当時とほとんど変わりなく、3万5千坪の広さです。曇華殿 (どんげでん)には三世仏が、また境内奥には七福神の弥勒菩薩の化身としての布袋尊が祀られています。
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宝所在近
宝所在近の文字が当寺の外門の額に書いてあります。これは経文にある言葉で「立派なお坊さんになるために努力をしなさい。」という意味です。禅宗の修行は個を極限にまで磨き上げることによって得られるものであり、今も昔ながらの厳しい修行が続けられております。臨済宗円覚寺派の浄智寺は、花や樹木も豊かで臘梅(ろうばい)、梅、海棠(かいどう)、立彼岸(たちひがん)、牡丹(ぼたん)、著莪(しゃが)、白雲木(はくうんぼく)、桔梗(ききょう)、夏椿(なつつばき)、萩の花々や杉、檜(ひのき)、柏槙(びゃくしん)、高野槙(こうやまき)の樹木が立ち並びます。磨き上げられた精神的な境地と季節の花々が古くそして新しい世界を物語っているようです。

北条宗政
北条宗政は、北条時宗(鎌倉幕府8代執権)の実弟ですが、29才の若さで亡くなります。弟思いの時宗は非常に残念がり、弟の為に寺を建立します。表向きには、宗政の子師時(もろとき)を開基にしていますが、実際は時宗の力によります。また、開山も兀庵普寧 (ごったんふねい)が名目上なっていますが、創建された時、この方は日本におりませんでした。実際に寺を開いたのは、南州宏海ですが自身は準開山になり、尊敬する中国師僧兀庵普寧(ごったんふねい)と導師の大休正念を開山にしています。ですから、鎌倉五山第四位の大寺創建の舞台裏には、兄弟愛と師弟愛と言う宝物が隠されています。

鐘楼門(しょうろうもん)

鐘楼門は鐘つき堂を兼ねた山門です。ここには「山居幽勝(さんきょゆうしょう)」の額があります。額の文字のとおり、当寺は谷奥の頂上の天柱峰までが境内で、そこには記念塔があります。記念塔は近年に円覚寺派管長で当寺住職であった朝比奈宗源禅師が中心となって建立したものです。ここの屋根には北条氏の三ツ鱗(みつうろこ)の家紋が、また書院入り口の棟門の扉には徳川幕府の葵紋があります。鎌倉五山第四位の格式を誇りますので、時の権力者が大事にした証拠と言えます。

布袋尊
布袋尊は境内奥のやぐらの中に祀られています。鎌倉七福神巡りの仲間のここの布袋様は未来を加護する弥勒様の化身です。お釈迦様が亡くなってから57億6千万年後の未来に本来の弥勒如来として現われ、私達人間を救ってくれるというのです。弥勒様は中国の唐の時代に契此(かいし)というお坊さんになって一度現れました。ここの布袋様は、この契此様を石像にしたものです。



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