この度の、未曽有の大災害で命を落とされた方のご冥福を祈るとともに、被害に遭われた方々へ心よりお見舞い申し上げます。
東北地方にも多数いらっしゃる弊社お取引先の皆様、またお客様やご家族、関係する方々のご無事をお祈り致します。
有限会社鉢の木
代表取締役 藤川譲治
この度の、未曽有の大災害で命を落とされた方のご冥福を祈るとともに、被害に遭われた方々へ心よりお見舞い申し上げます。東北地方にも多数いらっしゃる弊社お取引先の皆様、またお客様やご家族、関係する方々のご無事をお祈り致します。
この度の、未曽有の大災害で命を落とされた方のご冥福を祈るとともに、被害に遭われた方々へ心よりお見舞い申し上げます。
東北地方にも多数いらっしゃる弊社お取引先の皆様、またお客様やご家族、関係する方々のご無事をお祈り致します。
有限会社鉢の木
代表取締役 藤川譲治

極上のちりめんじゃこと香り高い実山椒を、
みりんとしょうゆだけでさっと炊き上げ程良く乾燥させました。
引き出物、お土産には、鉢の木自家製のちりめん山椒をご利用ください。
温かいご飯やお酒のおつまみに最適です。
化粧箱入りは、贈答用としてもご好評頂いております。
慶弔の、のし紙へのお名前入れも承っております。

85g入 1,000円(税込) | 190g化粧箱入り 2,500円(税込)
お問い合わせ 0467-23-3723(10:00〜18:00)
鮎の串打ち、蕗谷料理長に実演してもらいました。
鉢の木本店は、設備改修のため、2月7日より営業をお休み致します。



松花堂弁当 桃 8,000円(税別) | お子様松花堂弁当 2,500円(税別)
詳細お問い合わせくださいませ。
(食事時間を含めて5時間で設定)
東慶寺松岡宝蔵の聖観音立像は鎌倉尼五山第一位の大平寺の本尊と伝えられています。建長寺の本尊は禅宗では珍しく地蔵菩薩座像です。円応寺では閻魔大王ほか地獄の十王像を拝みます。八幡宮境内にある国宝館には市内各寺社の宝物が保存されています。
北鎌倉駅 〜 東慶寺 〜 建長寺 〜 円応寺 〜 鶴岡八幡宮 〜 国宝館 〜 鎌倉駅
3分 15分 2分 15分 0分 10分
円覚寺、明月院、瑞泉寺の庭園では禅宗寺院特有の枯山水の石庭が楽しめます。特に、瑞泉寺は昭和45年に発掘復元されたもので中世の形を残している唯一の庭園です。また、鶴岡八幡宮の齊館の庭と鎌倉宮の神苑は平成6年に完成し人気を集めています。
北鎌倉駅 〜 円覚寺 〜 明月院 〜 建長寺 〜 鶴岡八幡宮 〜 瑞泉寺 〜 鎌倉宮 〜 鎌倉駅
2分 10分 15分 20分 25分 10分 バス10分
鎌倉の四大名所をめぐる贅沢なコース。長谷大仏は鎌倉の仏像彫刻として唯一の国宝。そして源頼朝が鎌倉の町造りの中心とした鶴岡八幡宮を参拝し、鎌倉五山第一位の建長寺、第二位の円覚寺に鎌倉全盛期の文化を訪ねます。
長谷駅 〜 長谷大仏 〜 鎌倉駅 〜 鶴岡八幡宮 〜 建長寺 〜 円覚寺 〜 北鎌倉駅
5分 バス又は 10分 20分 20分 2分
江の電15分
1333年に鎌倉幕府は滅びますが、北条高時以下は東勝寺において自害します。宝戒寺は北条氏鎮魂のために後醍醐天皇が建立。建長寺は後醍醐天皇との対立を避けようとした足利尊氏が謹慎した寺。宝戒寺と仏日庵には高時像が祀られています。
鎌倉駅 〜 東勝寺跡 〜 宝戒寺 〜 鶴岡八幡宮 〜 建長寺 〜 円覚寺内仏日庵 〜 北鎌倉駅
10分 5分 5分 20分 25分 2分

瑞鹿山円覚興聖禅寺は、臨済宗円覚寺派の総本山で鎌倉五山第二位です。鎌倉幕府八代執権北条時宗が弘安5年(1282)に創建。開山は宋の名僧無学祖元(仏光国師)です。元冦に殉じた敵味方供養の為に建立。最盛期では42の塔頭寺院があった大寺で、現在でも18の塔頭は市内で一番多い数です。境内の舎利殿は、神奈川県で唯一の国宝の建造物です。

文永11年と弘安4年、海を越えて元国(現在の中国にあった、蒙古民族を中心とした国家)が、二度日本を襲来しました。時の執権北条時宗は、この国難に際して国を挙げて元軍の侵入を阻止します。円覚寺は、この戦いで戦死した敵味方供養の為に建立されます。鎌倉五山第二位の瑞鹿山円覚興聖禅寺は、時宗が開基、開山は宋僧、無学祖元(仏光国師)です。これ以上学ぶ事が無いという程の高僧でした。寺の落慶開堂の日に、白鹿が国師の説法を聞きに来た事から瑞鹿山の山号が、また国師が定礎の鍬を入れると地中から円覚経の石櫃が出てきた事から円覚寺と名づけられたと伝えられています。そして、寺入口の線路前の池は「白鷺池 (びゃくろち)」と言いますが国師が鎌倉に来た時に、八幡宮の神が白鷺となって国師を、この地に導いたという伝説があります。
七堂伽藍の中国禅宗様式ですので、父時頼の建立した建長寺と建物の配置がそっくりです。ただ父に遠慮して少し規模を小さくしました。それを補うために段差を付けた場所に建立し総門、山門、仏殿、法堂(現存しない)、方丈の並び方が階段状になっていて、間近に行って仰ぎ見ると大きく見えます。仏殿は関東大震災で倒壊し、昭和39年にコンクリート造りで再建されました。本尊は宝冠釈迦如来で人間臭い飾りを付けています。高い位にいる釈迦が、人間と同じ位に下りてきて話すという禅宗の考え方を意味しています。方丈の前庭には仏教にゆかりの樹木が立ち並びます。柏槙(びゃくしん)、木斛(もっこく)、白雲木、菩提樹、毘蘭樹、児手柏等です。その裏庭は、枯山水の石庭が広がっています。
方丈を出ると、妙香池があり、舎利殿はその奥にあります。神奈川県で唯一の国宝建造物です。ここの仏舎利は源実朝が宋の能仁寺から招来したものと言われています。これは、鎌倉尼五山第一位の太平寺(廃寺)の仏殿を移築したものです。ここには開山堂と禅の修行をする僧堂とがありますが、拝観はできません。
塔頭は大きな寺院内にある、小さな寺院をさします。鎌倉の多くの寺院も、その中にたくさんの塔頭を持っています。円覚寺の塔頭の数は、現在の鎌倉の寺の中では一番多く18ヶ寺あります。主なものは、開基時宗の廟所仏日庵、夢窓疎石の塔所黄梅院、春ぼたん等の美しい松嶺院、また帰源院(一般拝観はできません)は夏目漱石が参禅し、この体験をもとに名作「門」を書きました。また円覚寺を頂点とした同じ宗派の寺があります。東慶寺、浄智寺、瑞泉寺は、臨済宗円覚寺派のお寺です。
明月庵の名で永歴元年(1160)に、平治の乱で戦死した首藤俊道の子の首藤經俊が父の供養の為に創建。その後、北条時頼が康元元年(1256)に持仏堂として最明寺を、この地に開きます。時頼没後に子の時宗が禅興寺として再興。そして室町幕府関東管領上杉憲方が禅興寺の中に密室守厳を開山に塔頭明月院を復興。明治初年に禅興寺は廃寺、明月院のみを残し今日に至っています。あじさい寺として有名です。
明月院はあじさい寺として有名です。戦後に挿し木して植え続けてきたアジサイが実を結び、昭和40年代の初めに「あじさい寺」の名前がつきました。6月の最盛期には境内に青一色の花が咲き誇ります。本堂の名前は「紫陽殿 (しようでん)」、堂内の欄間も四枚 (よひら)の花びらを模しています。アジサイを意味しているんですね。四季折々花の絶えない、鎌倉の花の寺として訪れる人の多い所です。
第五代執権、北条時頼は、30才で出家すると、この地に持仏堂として最明寺(自身の法名)を建立しました。建長寺は公的な寺で、こちらはくつろぎの寺として開いたのが始まりです。時頼は37才で没しますが、その3年後に北条時宗(時頼の子)が禅興寺の名前で再興します。建長寺と円覚寺の両大寺の間の寺という事で、建長寺開山・蘭渓道隆を開山に、円覚寺開基・時宗自身が開基の形をとりました。総門左手の奥に時頼の廟所と墓所が祀られています。時頼は、鎌倉幕府を磐石にした執権ですが倹約家として仁政を施しました。
上杉憲方は室町幕府鎌倉公方第二代の足利氏満に仕えた関東管領です。憲方は、出家後に禅興寺の中に密室守厳を開山に、塔頭寺院「明月院」を復興しました。実は明月院という名は、この時が始まりではなく、平治の乱で戦死した首藤俊道の菩提を弔う為に、その子經俊によって「明月庵」として、この地に創建されています。足利三代将軍義満の時に、禅興寺は関東十刹の第一位と定められますが、明月庵は明月院と改められ禅興寺支院の首位に置かれます。禅興寺境内は競馬ができる程の広さで、現在の電車線路の辺まであったようです。また、相当立派な大池のある庭園もあり、四代将軍・藤原頼経も花見にやって来たりしていたようです。当時の権力者の社交場の寺でした。しかし、禅興寺は、明治初年には、廃寺となり塔頭「明月院」のみを残す事になりました。
明月院やぐらは、境内の開山堂横にあります。ここの宝篋印塔は、首藤氏の墓という説もありますが、塔の造りが室町期のものなので、上杉憲方の墓であるという説が有力です。やぐらの壁面には、釈迦と多宝如来そして十六羅漢と思われるものが彫られています。このやぐらは、明治初めの山崩れで発見された為に、規模も大きく保存性の優れた文化性の高いやぐらです。

北条時宗の没した翌年の弘安8年(1285年)に夫人の覚山尼が開山となり創建。開基は子の北条貞時です。代々名門出の住職が多く5世用堂尼は後醍醐天皇の皇女です。20世天秀尼は豊臣秀頼の娘です。覚山尼以来の縁切寺法は、女性救済の寺法で明治の初めまで続きました。鎌倉尼五山第二位の当寺も、明治36年以降は男僧の寺となっています。
入寺、縁切寺の名で知られています。縁切寺法を定めたのは、開山の覚山尼(北条時宗夫人)です。悪縁で苦労する女性を救う制度で、東慶寺で3年間修行すると離縁できるというものです。代々名門出の住職が多く、5世用堂尼は後醍醐天皇の皇女です。以後「松ヶ岡御所」と呼ばれます。
天秀尼 (てんしゅうに) は当寺20世の住職です。父は豊臣秀頼で、大坂城落城後に入寺します。養母は徳川家康の孫娘の千姫(天樹院)ですから、天秀尼が入寺の際、家康が彼女に何か望みはないかと聞きます。当時7才の天秀尼は代々の縁切寺法を存続して欲しいと頼みます。家康がこの願いを聞き入れた事により、寺格はさらに高まります。住職の行列では、大名行列でも道を譲ったようです。この寺法は、江戸幕府300年の間多くの女性を救い明治6年に民法ができるまで続きます。
この事件は、天秀尼が住持の時に起きています。江戸の始めの事ですが、福島の会津藩家老 堀主水は忠臣ゆえに、若い城主加藤明成の非情な行いを諌めます。しかし城主に逆恨みされ、騒動になり家老は脱藩します。高野山に逃げ込みますが、追跡してきた明成の家来に殺されます。家老の妻子は東慶寺に逃げ込みます。明成は、天秀尼に妻子を差し出せと迫りますが、「男子禁制のこの寺に踏み込むとは何事ぞ。この寺に逃げ込んだ女性を守るのが私の務めです」と断り、幕府に直訴します。その結果、東慶寺は残り、加藤家はお取り潰しになります。これ以来、全国の諸大名はこの寺を恐れるようになりました。
松ケ岡宝蔵には、聖観音立像、葡萄蒔絵螺鈿聖餠箱(ぶどうまきえらでんせいへいばこ)、初音蒔絵火取母(はつねまきえひとりも)等の、国の重要文化財があります。聖観音は鎌倉尼五山一位の太平寺(廃寺)のご本尊で、戦国時代にこちらに預けられました。聖餠箱はイエズス会の紋章入りです。鎖国下の日本でしかも東慶寺に伝わっているというのは興味深いものがあります。他にも縁切状や古文書等が展示されており、一般拝観できます。
墓地は境内の奥にあり、覚山尼、用堂尼、天秀尼の墓が並びます。また、西田幾多郎、高見順等著名な哲学者、文学者の墓も多く、境内裏山には広く世界に禅を紹介した鈴木大拙が居住した松ケ岡文庫があります。(非公開)